昨年のちょうど今頃だろうか。遠い記憶の奥底に手を伸ばすようにして文章を書きはじめた。主な内容は子供の頃に飼っていた犬、鳩、ハムスター、インコといった動物たちについてで、いわば「動物たちとの日々」とでも呼ぶべき事柄を長い長い文章で綴りはじめた。
書いていてずっと頭にあったのは、動物たちに向かう感情の源と行方だ。子供にとって、ふかふかな毛並みや羽毛に包まれ、きらきらと光る瞳を持った小さな動物たちは、存在すべてが奇跡そのものだ。なぜ、この手で抱きしめたいのか、存在のすべてを求めるのか、言葉が生まれる前に惹き寄せられていく。それは一瞬にして心を奪われるような感覚に近い。
しかし、そうやって抱き寄せた動物たちとの日々はやがて終わる。動物たちがいつか去っていくのは定められた絶対の約束だし、この約束が守り遂げられる前に僕たち自身が動物たちから遠ざかっていくこともある。身体と精神が大きく変わりゆく日々に身を置く子供にとって、動物という存在は忘れ物になっていくこともある。実際、僕自身もそうで多くの動物たちをぞんざいに扱った。
でも動物たちの全身から伝えられたぬくもりは、やがて目を覚ます。あの日に生きていた動物たちの存在感は火種のように小さくも強い炎を、僕の胸の中で灯し続けてきたように思う。この火種を生命感と呼ぶと大袈裟なのだろうが、生命を持つもの、動物に触れた先でしか得ることができない感覚が確かにある。
そして動物たちが灯す存在感は記憶のなかにだけあるものではない。ずっとつながっているとしか、あるいは今も求め続けているとしか言いようがないのだが、僕の日々には常に動物たちの存在があって、過去に覚えたあの感覚が新しい息吹をまとい続けているという実感がある。動物たちとの新しい過去と懐かしい現在。そこに見出したかったのは、生命持つものの存在の行方だったような気がする。
あの日、僕の腕の中から去っていった動物たちや新たに出会った動物たちのことを今の僕が思い起こし、『動物たちの家』という名で書き綴ったものは、そういうものだった。
2021年7月21日 奥山淳志
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